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Film
Written by Olivia Mayumi Moss, Chief Editor   
Active Image  Interview with Jamie Babbit
    by Olivia Mayumi Moss, Chief Editor
   July 2007, Tokyo
 
 
 

プライベート


 

SJ: まずは、あなたの生い立ちについて話してください。
JB: 私は今36歳で、オハイオ州クリーブランドの郊外にあるシェーカーハイツという町の出身です。私は裕福な住宅地で育ちました。母は公民権運動の活動家で、 南部の黒人の有権者登録を推し進めていました。 彼女は平和部隊にも所属していて、20代の頃から60代までずっと積極的にリベラル運動の活動をしていま した。晩年には、キリスト教会をゲイやレズビアンを受け入れるように改革する運動に関わっていました。実は、彼女はそれで逮捕されてしまったのです。彼女 は今年亡くなったのですが、亡くなるほんの1、2年前くらいに捕まったのですよ。本当に最後まで精力的でした。これまで同性愛者の運動に関わって逮捕され たことなんて私にはないのに、母にはあるなんて面白いでしょう!

母は、オハイオでセラピスト兼精神科医として働いていました。私が10歳になる頃まで、母 は16歳未満の子どもたちを主な対象としたセラピストとして開業していました。私が10歳になった時に始めたのが 数百万ドルをかけたNPOで、 “New Directions”という名前の、主に子どもたちを対象とした薬物中毒リハビリ施設でした。『Go!Go!チアーズ』はそれについて描いたものです。 彼女はすごく格好良くて、とてもリベラルで協力的な人でしたが、リハビリ施設の運営に関してはすごくきっちりしていて、ちょっと軍隊のような厳しさもあり ました。彼女はすごく強い女性でしたから、周りに指示を出すのがうまかったのですが、それは私にとって好都合でしたね。幼い頃からそんな母の姿を見て、ど うやって物事を取りしきり、人を管理していくのかを学んだことが、自然に今の監督業につながっているいるのだと思います。

でも、それはそれで大変でした よ。私はリハビリ施設ではなく自宅で暮らしていましたが、母は家でもリハビリ施設の子どもたちに対するのと基本的に同じルールを私に対してしいていたので すから。だから、彼女はすごくリベラルな考えの持ち主でしたが、我家の生活はすごく規則にしばられ、私はいつもそれに反抗していました。家のルール集が あって、「毎日ベットメイキングをすること。そして、それができていなかったら15分ごとに1ドルの罰金を課す」といったことが書かれていて、全ての指示 に同意していることを示すために、私たちはそのリストに署名もしなくてはいけませんでした。あと、学校の成績について、「あなたは絶対にAかBを取らなけ ればならない。この契約に署名せよ」という契約までありましたよ。クレイジーですよね。それで、私はそんな風に育ったので、『Go!Go!チアーズ』を作 る時、コメディでゲイであることを描くとともに、そういった厳格なものの考え方についても描こうと思ったのです。それは、言わば私自身の全てでしたから。
SJ: 兄弟姉妹はいますか?
JB: 兄が一人、弟が一人います。昔から仲が良くて、今でもそうですね。彼らは私にそっくりですよ。私たちは母がちょっとクレイジーだったのには気がついていましたが、同時に彼女がすごく私たちを支えてくれてたことに感謝しています。私たちはみんな、それぞれのキャリアで成功していると言えます。母は、私たちにそれが大事だと教えていましたからね。兄は、ニューヨークのCBSニュースで働いていたこともあるテレビプロデューサーです。弟のほうは、とてもキュートな人です。いつもシャイでおとなしい子で、私は彼を殴ったりもしました!弟は、主夫として子どもたちの世話をしているのですが、彼のパートナーはエクアドル出身の、高い地位にある聡明な教授です。 弟は4か国語を話し、すごく学歴も高いのですが、専業主夫として暮らしていますね。
SJ: では、お父さんは?
JB: 父は弟によく似ていて、すごくもの静かで、協力的ないい人でしたが、すごく面白いユーモアのセンスも持ち合わせていました。母より父のほうが子育てに熱心でしたね。
SJ: お母さんはどうして亡くなったのでしょう?
JB: 卵巣がんでした。日本に行って、帰ってきた時に体調が悪かったのは時差ボケのせいだと母は思っていたみたいなのですが、医者に行ったら、「あなたは卵巣がんの第4ステージで、余命3ヵ月です」と言われたんです。とても急でしたね。私はちょうどテキサスで 『dot.ドット』という私の2本目の作品を撮っている最中で、赤ちゃんも生まれたばかりでしたから、とても大変でした。赤ちゃんはまだ生後2週間で、私がその映画の監督で、私のガールフレンドがそのプロデューサー。そして、そんな時に母から電話がかかってきて、「私は末期がんで、あと3ヵ月で死ぬって」と言われたのです。彼女はそれまでずっと病気知らずで、いつも元気でした。とても急で、それから1年くらいだったでしょうか。それは恐ろしい出来事でしたが、ある意味、私も死ぬ時にはああいう風に死にたいとも感じました。ずっと元気に生活してきて、死ぬ時はあっという間に。 母が病院にいたのはたったの2日間で、私たちみんなで看取ることができ、最後までしっかりしていて、ちゃんとお別れを言う時間もありました。だから、最悪の状況でありながらも最高だったと言えます。

面白いのは、私は赤ちゃんもいるし母の死期が近づいているから映画の撮影はやめようと思っていたら、母が、「あなたが映画をやめたら、私は内側から殺される。やめるなんてだめ。やらなきゃいけない」と言ったのですよ。実は、彼女はトロント映画祭で映画がプレミア上映されるまで生きることを目標にしていて、「私は絶対にプレミア上映に行きたい!」と言っていましたが、その言葉通りになりました。彼女はまさにそんな大きな人でしたね。
SJ: では、あなたのカムアウトのプロセスについて教えてください。
JB: 16歳の時には友達全員に性的なファンタジーを抱いてることに気がついていたから、多分、当時からそういう傾向があったんでしょうね。ボーイフレンドができたのは大学生の時でした。ニューヨークに来て最初の一週間で出会った男の子とやがて親友となり、つきあい始めたのです。 彼が、私が初めて真剣につきあったボーイフレンドです。 彼と知り合った時に、私がバイセクシュアルで、男女どちらとも経験はないけれど、両方に惹かれるということを話しました。確か、彼が私がそのことを話した最初の相手ですね。話す必要があったんですよ。「ねえ、私はあなたとつきあおうとしている。でも、私は女性にも惹かれるんだということをあなたに知っておいてほしい。だから、もしあなたがそういうのは苦手なら、このことは忘れて。あなたとは仲良くできるけれど、私にはそういうところもあるの」と伝えました。結局、彼はそれでも平気で、私たちは学生時代ずっとつきあっていました。

それで、卒業後に彼に言ったんです、「女の人といることがどんなことか、どうしても試す必要がある。あなたのことは愛しているし、あなたは私の友達で、性的にも惹かれている。でも、私は女の人ともつきあってみなければいけない。それがどんなことなのか知らないし、知る必要があると思うから」と。私は彼と一緒に暮らしながら、同時に女性たちともつきあい始めました。私は誰に対しても正直でいたし、彼も分かってくれていたと思うのですが。でも、最終的に彼をすごく傷つけてしまいました。私が悪かったと、そうすべきではなかったと思います。彼が私に対して好意的だった分、本当に彼のことを傷つけてしまって、最後はとても大変でした…結局、私は彼を振ってしまいましたから。彼の車を借りてデートしていた女の子と付き合うために!それでも彼は理解してくれて、今でもとてもいい友達です。彼は映画監督で、私のガールフレンドは今、彼の映画をプロデュースしているのですよ。近親相姦みたいですよね!

とにかく、その時の女の子が、以来11年間つきあっている私のガールフレンドです。つまり、彼と6年つきあって、その後、彼女と11年つきあっていることになります。 ある意味、2人ともとてもよく性格が似ていますね。
SJ: あなたがカムアウトした当時、レズビアンの有名人は誰かいましたか?
JB: グウェネヴァー・ターナー。『ゴー・フィッシュ』を観ましたけれど、もちろん気に入りました。 それを観たのは、大学を卒業した1993年でした。それが私が最初に観たレズビアン映画です。すごく政治的で、おかしくて、芸術的で、大好きでしたね。また、私はそれまでフェムのレズビアンを見たことがなかったので、グインのキャラクターにとても共感を覚えました。もちろん、大学時代にフェムのレズビアンを何人か知ってはいましたが、私の大きな悩みはほとんどのところ、レズビアンたちは私が同性愛者だとは思わないから私に言い寄ってきてはくれないだろうということでした。そのことを苦々しく感じていたので、その時は「もっとブッチみたいに見えるようにしようかな?そうしたらモテるようになるかな」なんて思いましたけれど。でも、本来の私はブッチからはほど遠いので、それでは詐欺みたいなものですよね。 だから、明らかにフェムであるグインにとても共感したのです。実は、私がニューヨークで初めて行ったゲイバーは“The Clit Club”で、一緒に行ったのは『ゴー・フィッシュ』のローズ・トローシュ監督でした。大学を出た直後のことです。

私がカムアウトしたのは22歳の時ですが、遅すぎましたね。今からすれば、16歳の時にカムアウトしていたらもっとすっきりしていたのに、と思います。
SJ: 家族へのカムアウトは?
JB: ある程度は前々から話していましたが、兄弟が、「あぁ、本気だったんだ」と言った時のことははっきりと覚えていますね。私はいつも自分はバイセクシュアルだと言っていたつもりでしたが、彼らはといえば、「そうかい、でも何か証拠はあるの?」という感じで、私は、「うーん、ない…けれど、心の中には…」と言うんです。最終的には彼らも信じてくれましたが。彼らはとても協力的でした。と言うのは、母のほうは、私がそのことを打ち明けた時に当然ながら泣いたのです。彼女はすごくリベラルでしたが、私が子どもを持つことはないかもしれないということに心を痛めていて。でも、私が、「ママ、私は子どもを持つつもりよ」と言ったら、彼女は元気になりました。私が子どもをつくろうと決めた時には、彼女はとても喜んでいましたよ。母はまた、「でも、あなたは運動オンチじゃない!」とも言いました。母にはレズビアンの友達がいたのですが、みんなブッチな女性ばかりだっだので、それがショックで困惑したのです。母は、「見たところ、あなたはそうではないと思うけれど」と言っていましたが、すぐに慣れてしまったようで、私は母に拒絶されたり、そうされるかもしれない不安さえ感じることはありませんでした。
SJ: あなたは自分をレズビアンだと思いますか?
JB: 私は、自分のことを間違いなくレズビアンだと思っています。11年間レズビアンの恋愛関係にあって、レズビアンとして生きていますから。深いところでは、私はバイセクシュアルであると認識していますが、そう主張するのは正直ではない気がします。私はバイセクシュアルとして生活してはいませんからね。これは複雑で、ラベリングに関する問題だと思います。それによって制限されてしまうから、レッテルを貼られるのを好まない人たちの気持ちはわかりますよ。でも、一方で、自分自身をラベリングすることの持つ力も知っています。ロールモデルになることは大事ですからね。それで、私が自分をレズビアンだと定義づけて、それをオープンにするようにしているのは、私が毎日レズビアンとして生活していて、私の娘がレズビアンの娘として生活しているからなのです。
SJ: 「レズビアン文化」というものを信じていますか? 
JB: 「LGBT文化」に対して「レズビアン文化」を持つのは大事なことだと思います。なぜなら、LGBT文化の問題点は、それが大抵「女性は底辺に位置している」ということを意味するからです。(これは結局フェミニズムの話になってしまうのですが)同性愛者のコミュニティは、異性愛者のコミュニティよりも性差別的なところがあるということが問題です。なぜなら、少なくとも異性愛者のコミュニティの男性は女性に惹かれるので、どの道女性と関わっていかなければなりませんが、一方、ゲイの男性の中には本当に性差別主義者がいるのですよ。これは世界中で起こっている問題だと思います。レズビアンとゲイのイベントをやろうとしても、いつも男性が支配権を握ってしまいます。あるいは、レズビアンバーがあっても、そこにゲイの男性が来るようになると、結局そこはゲイバーになってしまうのです。だから、自分の場所は自分で守らなければいけませんよね。 エゴかもしれませんが、でも、大部分はお金と特権の問題です。男性には特権があり、より良い仕事、より多くの激励、全てをより多く得る機会がより多くあり、それによってより多くのお金を手にする訳です。 そこで、女性はいつも脇に追いやられてしまいます。 だから、私はレズビアン文化やフェミニスト文化はすごく大事だと思うのです。
SJ: あなたのガールフレンド、アンドレア・スパーリングとはどこで知り合ったのですか?
JB: サンダンスです。 彼女がプロデュースしていたグレッグ・アラキの映画がサンダンスで上映されていて、私もその時に短編作品で参加していたんです。面白いものですね…。
SJ: 一緒に働くのはどういう感じですか?
JB: 私たちは、2、3年に一度は一緒に映画を作ることにしています。彼女は今、私の元ボーイフレンドと一緒に映画を作っていますが、彼女はすごく良く仕事ができて、それで私はますます彼女や彼女のすることに惹かれてしまいます。これまで、彼女以上にできる人と一緒に働いたことはないですね。彼女は映画のプロデュース業をしていますが、寡作で作品の間隔も空いているので、私が年に10本くらいのテレビドラマを手がける一方で、彼女は年に1、2本の映画を制作しているという感じです。仕事量は彼女のほうがとても少ないですね。彼女は大体家で仕事をしていて、家に事務所を構えているので、時間に余裕があります。彼女と一緒に働くことはとても好きです。それが彼女と恋に落ちた理由の一部ですが、それも私たちの関係の大切な要素ですね。私たちはお互いが別々のことをして、お互いを補いあっています。彼女は人々の要求を満たすのが得意で、私は自分が欲しいものを要求するのが得意です。だから、パーフェクトですよね! もし2人とも私のようなタイプだったら、それは悪夢!私たちはすごく良いバランスを保っていて、お互いに100パーセント違うのです。私と彼女ほど違っている人たちなんて、他にはいないかもしれません。
SJ: あなたには娘さんがひとりいて、今も妊娠中ですね。家庭生活と仕事のバランスはどう保っているのですか?
JB: 本当に大変ですよ。住み込みの従業員がいるのですが、一緒に住んでいて、言わば私たち2人の妻であり母である人です!彼女は21歳で、スウェーデンの出身。ロサンジェルスでは、住み込みの従業員を雇うのはよくあることです。あとは、私のガールフレンドは私よりも仕事量が少ないというのもありますね。ストレートの友達が大変な思いをしているのを見ていると、私はとてもラッキーだと思います。レズビアンの関係のいいところは、ガールフレンドがより助けてくれるということですね。実際のところ、彼女のほうが主に母親業をしていて、私のほうが稼ぎ頭です。自然にそうなりました。私もそのようにして育ち、父が家にいて母が働いているほうが多かったので、気になりません。確かに、彼女のほうが私の父に似ていますね。私は当然のごとく、娘がより多く働いている親に対して持つ恨みのようなものを常に持っていたので、これは興味深いことです。今や、私がそういう親になってしまっているのですから!
SJ: 以前から自分で子どもを産むつもりだったのですか?
JB: 私は子どもを産むことには興味がなかったのですが、彼女が医者に行ったところ、彼女は子どもが持てないということがわかったのです。誰かを雇って代理出産してもらうことも考えましたが、それには10万ドルもかかるらしくて。それで私は、「私が産めばいい。そのほうが簡単じゃない!」と思ったのです。
 

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キャリア

    

SJ: なぜ映画制作に関わるようになったのですか?
JB: 私は公立の学校(フリースクール)に通っていました。両親がとてもリベラルで、私が俗物っぽく私立学校に通うことを望まなかったからです。私は郊外の裕福な地域で育ったのですが、そこはとても保守的で、プレッピーなところでした。だから、私は大都市へ行って、そういうもの全てから解放されたかったのです。ニューヨークにある1校の大学にだけ出願しましたが、そこに入学することができました。コロンビア大学のバーナード・カレッジです。4年間通ったその大学は、ニューヨークの映画製作会社と多くの繋がりを持つ、素晴らしい学校でした。私は映画の世界に入りたいと思っていて、それには色々な人と知り合うのが近道であるということを知っていました。大学を通して仕事を見つけ、1年生の時から『いまを生きる』のプロデューサーやマーティン・スコセッシのもとで働き、3年生の時には『エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事』の現場で働きました。大学を卒業する時までに、すでに2つの映画製作会社で働いた経験を持つことができたので、とても良かったと思います。この経験を通じて、より映画製作について知ることができましたし、自分は何がしたいのかもわかりました。

当初、私はプロデューサーになりたいと思っていました。当時からすでに、組織をまとめたりするのが得意なタイプでしたから。私は、そういったことを母から学んでいました。母とは、私が11歳の頃からもう履歴書を用意していたのです!でも、『いまを生きる』のプロデューサーと3年働いてみて、プロデューサーにはなりたくないと思いました。なぜなら、プロデューサーの仕事というのは組織することが全てで、クリエイティブな部分はまったくなかったのです。また、私はずっと演技というものにとても興味があり、子どもの頃からたくさん演技をしてきましたが、決して役者になりたかったわけではありません。役者は作品を自由にすることはできず、ただ他の人のなすがままにされるばかりですが、私は役者になるには支配欲が強過ぎたので。そういうわけで、私が本当になりたいのは監督だと気がついたのです。でも、そのことを口にするのは難しかったです。女性が監督になりたいと言うのは大変なことだと思います。一度「映画監督になりたい」と言ったらそれを実現しなければならないこと、またそれは本当に大変なことだと私もわかっていました。私はセットを担当したり、脚本を監督したり、つまり舞台監督のような仕事をして、10年間の下積み時代を経験しました。この世界に入ったのが19歳、大学1年生の時で、初めて自分の映画を作ったのは29歳の時です。私自身が監督になる前に、本当にたくさんの監督と仕事をしましたね。
SJ: 映画監督業は、いまだに男性社会なのですか?
JB: そうですよ。誰も助けてはくれませんし、監督になりたがっている人がごまんといる中で、自分には力があると主張して、それを証明しなければならないので大変です。十分に自信を持って、怖がらすにいかなければなりませんが、何もできなかった時でも自信を持ち続けるというのが最も大変なのではないかと思います。なぜなら、そのうち何か面白いものを創り出すとわかっていても、まだ実際に何も創ったものがなければ、どうしてわかることができるでしょう。そして、これは特に女性にとって難しいことです。私たちを励ましてくれる人は多くありませんし、自分が誰よりも偉いと思っているような傲慢で嫌な奴になれとは教えられてきませんでした。もし女性が自分のところの役者にあれこれ指示を出せば、ただのビッチ扱いです。私の母がある意味そうだったので、私にもそういう性分があるから大変ですが、私は絶対そうはなりたくなかったのです。
SJ: 映画学校へ行ったのですか?
JB: ずっと旅行が大好きで、ガーナの学校へ通ったこともあったので、大学へ行って外国研究を専攻しました。でも、映画が作りたいという気持ちもずっとありました。映画ビジネスに関しては、特に映画の学位が必要とされることはなく、ほとんどの人は学位を持っていません。私も映画学校には行っていません。映画学校に行かなければ、映画学校で得られるすべてのリソースなしでやっていかなければならないので大変だとは思います。でも、私は、以前から大学で4年間勉強し、とにかく何でも学ぶことが一番いい方法だと思っていました。四六時中、映画のことだけを考えているわけにはいきませんからね。大学では、賢い人間になって、ゆくゆくは面白い映画を作れるようになるために必要なことを教えてくれます。大学院に2、3年行って映画を勉強しようかとも思いましたが、アメリカの学費はとても高いのです。それに、私はすでにたくさんの映画製作に携わっていたので、実際に映画の仕事をしながら、そこから学ぶことのほうが多いと思ったのです。そうすればお金も稼げて、それを自分の映画製作のために使えますから。これが私がたどった道です。
SJ: あなたと同じやり方で映画監督になった人は大勢いますか?
JB: 映画監督のアンジェラ・ロビンソン(人気レズビアン・カルト映画『D.E.B.S 恋のミニスカウェポン』の監督)は私の親友ですが、彼女は映画学校に行きました。彼女は4年制大学に通った後、ニューヨーク大学院の映画学校に進んだのです。映画学校へ行くのは素晴らしいことだと私も思いますよ。もし大きなローンを組まずに済むのならね。何といっても学費が高いのに(約10万ドル)、何年経っても映画で稼げるという保証はありませんから。

私は、物事に集中し、いつも計画を持つように、と言われて育ちました。私の計画というのは、「映画製作に携わり、まわりの人を観察して映画製作に関わることをできるだけ多く学ぶこと(技術的な面で)。でも、一方で常に自分自身の芸術を磨く必要がある」というものでした。だから、稼いだお金でいい車を買ったりはせず、映画を作っていました。私は、本当に自分の目標をしっかり定めていました。映画製作に携わり、お金を稼いだ途端、本当にやりたかったことを諦めてしまう人がたくさんいます。私はそんな人たちを数多く見てきました。彼らは、自分がやりたいことよりも、お金をもたらすその仕事の中に自分の価値を見いだしているのです。だから、私は、「私は自分の映画を作らなくちゃいけない」といつも思っていました。例え映画の出来が悪くても、ゆくゆくはよいものになると常に考えるようにしています。もし出来の悪い映画を10本作ったとしても、それはそれでいいのです。自分でそれらの映画を作っている限り、自分自身を許すことができます。なぜなら、10本のうち、1本くらいはいい作品になるだろうと思えるからです。そして、事実そうなりました!残りの9本はだめだったとしても、気にしません。そこから学んで、前進するのです。私はこれまで、はっきり言って出来の悪い映画も作りましたが、「出来が悪くても気にしない。とにかくただ作り続けるんだ。そうしなきゃならないんだ」と常に思い続けてきました。10年間、本当に集中してやってきました。でも、私は別に完璧主義者ではありません。それでは疲れてしまいますからね。私は「前へ、前へ、前進するんだ。もし出来が悪くても、とにかく前進し続ければ、最終的にはいいものが出来るようになる」と考えるようになったのです。

 

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アンジェラ・ロビンソンが監督し、アンドレア・スパーリングがプロデュースした人気レズビアン・カルト映画『D.E.B.S. 恋のミニスカウェポン』(2004年)

 

SJ: なぜロサンゼルスに引っ越したのですか?
JB: もとはといえば、インディペンデント作品に関わり始めた頃に、私の知人はみんなお金がないことに気がついたからです。私は、「私はレズビアンで、子どもが欲しい。お金が欲しい。お金が必要」と思っていましたが、周囲を見渡してみたところ、インディペンデント映画産業では、成功した人がいかに貧乏であるかを知りました。「私はあんな風にはなりたくない。私は自分を助けてくれる誰かと結婚することはできない。私は、多分私が知ってる他の女の子たちみたいに、全然お金のない女の子と結婚するだろう」と思ったのです。

私は、自分が本当に関心のある映画を作ることを見失わずに、コマーシャルを作ること、もしくはテレビ番組の監督をすることと両立させたいと思いました。私は、テレビ監督を始めて以来、やがてそれがその人の全てとなって、その人自身のアートについては忘れてしまう人を目にしてきました。その点私は、いつもそれらを両立させています。私にとっては、どちらもとても大切なものですから。家族を養っていくには、お金は本当に必要です。でも、同時に私が本当に関心のあるインディペンデント作品を作る必要もあるんです。だって、そのためにテレビ監督をしているのですから。それで、この国で唯一、私が監督として生計を立てられる場所がロサンゼルスだったのです。それがロサンゼルスに住んでいる理由です。今、私はテレビ監督として成功しています。50代の男性がほとんどのこの職業では、私は珍しい例ですね。
SJ: どうやってテレビ業界に入ったのですか?
JB: 私はただ粘り強くやってきて、結果的にうまくいきました。ある時に得た仕事でいい結果を残して以来、そこからの積み重ねですね。そして私は(テーブルを叩きながら)、これからもそれを積み重ねていきます。私は最初に『Go!Go!チアーズ』を撮りましたが、その映画でエージェントと契約を結ぶことができたのです。インディペンデント作品の1本でも撮って、それが広く公開されれば、人々は私を何かをやれる人として見てくれるようになるとわかっていました。
SJ: 自分のことを、単なる映画監督、またはテレビ監督というより、「レズビアンの」映画監督だと思いますか?どんなテーマに注目していますか?
JB: 確かにレズビアンの映画監督として自分を見る時もありますが、場合によりますね。私が興味を持つテーマというのは、人生を通じて変わりうるものだと思います。過激な政治思想にはとても興味があります。自分がそういった思想を持っているわけではありませんが、私はずっと、政治であれ何であれ、極端な人々に魅了されてきました。また、その人自身の中で極端になることに関しても。私はクィアなこと、フェミニズム、女性同士の関係、女性の男性とは異なったあり方に関心があります。例えば、女性は秘密を交換し合うことによって友達になるとか、女性同士の関係の複雑さとかですね。

私はまた、レズビアン関係におけるドメスティック・バイオレンスについても興味を持っていて、それがもとで『Stuck(原題)』という映画を作りました。私の従祖母はレズビアンで、40年間連れ添ったガールフレンドがいましたが、私が聞いたところによると、彼女たちの関係は恐ろしいほどクローゼットだったそうです。彼女たちが住んでいたのは、1940年代の、農業の町にあるとても閉ざされた社会でした。私の従祖母はフェムで、彼女のガールフレンドはブッチでしたが、ひどい人で、よく従祖母を虐待していたのです。彼女たちには娘もいました。私は、どの家族にもクィアな人はいると思います。ただ、それを見つけられるか否かは別ですが。不思議なのは、私の父は決して従祖母のことを同性愛者だとは思わなかったことです。父はただ、従祖母は親友と一緒に住んでいるのだと言っていました。それで、私が「従祖母は同性愛者なんじゃないかって考えたことはある?」 と聞くと、父は、祖母は決して従祖母のガールフレンドが家に入ることを許さなかったと言うのです。従祖母は戦争に行く男性と一晩限りの関係を持ちましたが、彼は二度と戻って来ず、やがてその彼女と知り合ったのです。私は、彼女たちは絶対に同性愛者だと思いました。だって、本当にただの「友達」なら、なぜ祖母は彼女を決して家に入れようとしなかったのでしょう?そして、私は祖母を訪ね、そしてそこから1ブロック離れたところに「友達」と住む従祖母を訪ねました。それで、会ってすぐに全てわかりましたよ。従祖母のガールフレンドはいかにもブッチという感じでしたから!彼女は80歳でしたが、本当にブッチだったのです。私は、家に帰って父に「お父さん、嘘をついたんでしょう!」と言いました。そうしたら、「不思議なことに、そうとは考えたこともなかった」と彼は言うのです。家族全員、誰もそうとは考えなかったのです。それから、父は父のきょうだいたちに、「ええと、ジェイミーがおばさんは同性愛者だと言っているんだ」と、そのことを話したのですが、彼らはみんな「うわ、そんなことは考えたくもないよ。気色悪い…」という反応をしました。「長い間その2人を知っているけれど、性的関係があるなんて考えたこともなかった」というような感じです。本当にホモフォビックですね。私は従祖母の葬儀に参列しました。彼女たちは最近、ほんの数ヶ月のうちに相次いで亡くなったのですが、その葬儀で私はヒステリックに泣きました。なぜなら、喪主を努めたのは従祖母の娘で、ガールフレンドの名前が出ることはなかったのです。私には、従祖母のガールフレンドが一体どこに埋葬されたのか見当もつきませんでしたし、私の父を含め、誰も彼女については触れなかったのですよ。彼女たちは20歳の頃から一緒に住んでいたというのにも関わらず。本当にめちゃくちゃです。

それで、私は不思議な秘密というものに興味を持つようになりました。閉ざされた社会の中では、家庭内暴力は見過ごされがちです。逃げ場がないように感じ、助けを求めることができなくなるのです。また、私の最新作『dot.ドット』では、性的虐待と家族の全てを描いています。そこでは、父から娘への性的虐待が描かれていますが、私はそれに関しても関心があります。なぜなら、女性が向き合わなければならない事柄でありながら、決して話そうとはしないという点が共通しているような気がするからです。これはずっと、私がデートした女性や、知人の女性など、たくさんの女性が持っている問題でした。

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ジェイミーの長編映画2作目となった『dot.ドット』(2005年)

 

SJ: それでは、自分のことを「レズビアンの」監督というよりは、「フェミニストの」監督だと考えているのですか?
JB: そうです。つきつめていくと、私が最も関心があるのはフェミニズムの問題で、私は決して政治的文脈を持たないレズビアン映画は撮りません。また、私は自分の過激な政治的見地をコメディの仮面で覆い隠すことも好きです。誰も、私の過激な政治的見地など気にかけたりしないと思いますので。観客を笑わせて、楽しんでもらっているうちに、私の政治的見地を忍び込ませるのです。トロイの木馬のように、こっそりと。

また、私の世の中の見方は変わっていると思います。私は、皮肉や過激なことが好きなのです。『ちっちゃなパイパイ大作戦!』では、私は彼らが供託金を持っていたり、誰かを使っていたりするところが好きですね。なぜなら、多くの政治活動家は、人からお金をもらっているので、あんなに独立して政治に身を捧げることができるのですから。誰かが妥協をしたら、私は、複雑なその理由について探りたくなるのです。貧しい人々は、フルタイムで政治に専心することはできません。だから、例えばセイディーのように、彼女を養ってくれる人とつきあうわけです。彼女は、政治的な妥協をしない代わりに、個人的には大きく妥協していました。
SJ: 人々はよくあなたと『Lの世界』とを結びつけて考えますが、あなたの映画は実際は『Lの世界』とは違う世界に焦点を当てているのに、面白いですね。
JB: 『Lの世界』はまさに、番組の生みの親であるアイリーン・チェイケンの世界です。私のというよりも、彼女の世界なのですよ。でも、『Lの世界』の仕事をするのは好きです。その世界は知っていますし、それに魅了されていますからね!
SJ: 今現在はどのようなテレビ番組を作っているんですか?
JB: 今年に入ってからやったのは『Lの世界』で、今は、大手テレビ局の新しい番組をたくさん作っています。ニューヨークでは、『Gossip Girl(原題)』という番組を作っています。『The OC』の制作陣による新番組ですが、ロサンゼルスのオレンジ郡のお金持ちの子どもたちの代わりに、ニューヨークのお金持ちの子どもたちについて描いたものです。だから、とても面白くなると思いますよ。そして、『シックス・フィート・アンダー』という、アメリカで有名な番組のメインキャストを起用した番組も作っています。

テレビ業界では、年に1回、7月の2週間で、番組のディレクターを決める面接をします。アメリカの大きなネットワーク局の番組は22回放送です。『Lの世界』はケーブルテレビ局の番組で、12回放送ですが、各回ごとにディレクターが変わるからすごく大変ですよ。つまり、この2週間のうちに、向こう1年間のスケジュールを組むことになります。私は、1日に5件の面接を受けました。たくさん働いた甲斐あって、経歴もすごく良く、みなさんに私が誰であるかということと、そして経験が豊かであるということをもわかってもらえています。面接官は、アイリーン・チェイケンら番組の制作者です。だから、あなた方が思い描いていることはわかっているし、それを愛しているし、自分がそれを監督することにワクワクしているから、完全に奴隷になります、と言って彼らを説得するんです。番組制作者にとっての現場監督みたいなものですね。そういうわけで、基本的に私の来年1年のスケジュールは決まっています。だから、妊娠についてもスケジュールを調整することができて、2ヵ月の休みを取っています。

 

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主な作品

 

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SJ:
POWER UP (アメリカのロサンゼルスに本拠を置く、映画産業における女性同性愛者の可視化を推進しているNPO) が手がけた初めての長編映画が、米国で最近公開されたばかりのあなたの最新作『ちっちゃなパイパイ大作戦!』ですが、POWER UPとはどのようにして関わりを持つようになったのですか?
JB:
POWER UPの設立に尽力したのはステイシー・コディコウですが、彼女はGLAAD(中傷に反対するゲイとレズビアンの同盟)に熱心に関わっていて、そこの有力な資金調達担当官の一人でした。彼女はハリウッドの古いユダヤ系一家の出身で、彼女の父親はアウシュビッツの強制収容所を逃れてロサンゼルスへやって来て、そこで億万長者になったのです。彼女は実業家でしたが、GLAADで働いている時、そこがとても男性中心だと感じていました。それで、「私は資金集めはすごく得意だから、自分でレズビアンの団体を始めたほうがいいんじゃない。どうしてわざわざ男性中心のGLAADにお金をやらなきゃいけない訳?」と思ったのです。彼女は、アウトで有名で、彼女を助けてくれそうなたくさんのレズビアンたちに連絡を取りました。私にも連絡があって(そ|